「伝統と革新」という言葉は非常に使い古された言葉だが、常に僕の頭の片隅にしまってあって制作中のふとした瞬間に「でんとうでんとう..」「かくしんカクシン......」ともぞもぞと顔を出してくるものだ。
ただ最近は「革新」の代わりに「更新」でもいいかななんて考え出している。「伝統と更新」。
未来を一気に引き寄せる革新的な発想に至れば素晴らしいことだが、まずは昨日の伝統を更新し今日の感覚にアップデートしていくことでいつか革新的なアップグレードができる。はずだ。
自分の心の中に宗教を持つ。というのはたぶん大切なことなのかなと思う。別に僕自身熱心な仏教徒や(我が家は浄土宗)、神道の信者(太宰府天満宮で修行経験ありだが)という訳では無い。ただ、小さな頃からお寺はお盆や法事のときに、神社は初詣でなくても何かと足を向けることが多かった。家の仏壇にも3日に一回くらいは手を合わせたり、仕事場の神棚には気がついたときにお神酒を入れ替えたりしてちょいちょい関わっている。が、そういうことが大切だということではなくて(多分大切だとは思うけど)、自分の存在は自分だけで成り立っている訳じゃないということさえ分かれば、宗教は自分の外に求めなくてもいいのかなと思ったりするのだ。
むかし、有楽町駅前でよくある手相の勉強でみたいな人に声をかけられて、途中まではすごくいい感じだったのだけど最終的に何かの新興宗教のセミナーに勧誘されたことがあった。その時も心のマイ宗教のおかげで「縁があったらまた会えますよ」と悟りきったひと風のセリフを放って勧誘員とお別れすることが出来た。でも今考えると、そのセミナーではどんな壷を売りつけられるのかちょっと見てみたかったなと思う自分もいるのだ。
師匠に入門して約5年。そろそろ年季が明ける。つまりは弟子卒業。師匠からお祝いにとジャケットをプレゼントしていただいた。「ああ、これで俺も独立かっ!」と晴れがましい気分で制作に意気込みたいものですがなかなかそういう気分にはなれません。なぜなら師匠は父ですから。家業を継ぐと決意しましたから。ずうっと僕は家におるのです。
しかしながら、やはり年季が明けるというのは形式上ではあれ気が引き締まるもの。
制作環境は変わらずですが、心は独立を果たし、これからも一層制作に励んで中村人形を盛りたてていく所存ですので、皆様何卒ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。
人形の命は顔だとかはよく聞く話。確かに一番その人形の雰囲気や存在感を左右する場所は顔なのだが、その中でも一番の命は眉だと思う。実際目よりも書くのが難しいし、目よりも失敗が分かりやすい。表情も眉の角度だけで笑ったりしかめたりと変わってしまう。女の人のメイクも眉毛が難しそう。時代性も出るし、最近は太眉が流行ってるというふうに。
人はとにかく、人形の命は眉毛に宿る。と思う。
昨年末に初めて絵馬をつくった。僕が学校を出てすぐ修行に出された太宰府天満宮からのご依頼で。
お正月から社棟に並ぶというのでやはり干支の絵を描くことにした。それにしても思えば高校受験、1度目の大学受験、
2度目の大学受験と受験の度にお正月に太宰府へ行き、必死に絵馬に合格祈願を書いたことが懐かしい。
絵馬にはそれぞれの人がそれぞれの願いを必死に込める。あの時僕もそうだったからよくわかる。
白い猿が舞う姿を絵馬にすることにした。雅楽の装束をまとった猿はゆったりと舞う。地には天満宮の社紋の梅を配して書いたひとの願いに花が咲きますようにと僕の願いを込めた。